愛宕山鉄道は、発起人総代・風間八左衛門ほか23名が大正15(1926)年6月18日に愛宕山登山電気鉄道の名で願書を提出し、11月15日に免許を受けた後、昭和2(1927)年8月1日に京阪電気鉄道(20%出資)と京都電灯(17.6%出資)のグループ会社として資本金200万円をもって設立されました。
昭和3(1928)年6月に工事を着工、昭和4(1929)年4月12日に嵐山から清滝までの平坦線(3.39km)を開業しました。起点は、免許申請時には省線嵯峨駅(現・JR嵯峨嵐山駅)としていましたが、免許下付時に京都電灯(現・京福電気鉄道)嵐山駅に変更しています。嵐山から清滝トンネルの手前までの2.94kmが複線、清滝トンネルから清滝までの0.45kmが単線でした。開業時の途中駅は釈迦堂、鳥居本の2駅で、車庫は釈迦堂駅に隣接されていました。また、清滝駅には「清滝食堂」を併設していました。
続いて同年7月25日に清滝川から愛宕までの鋼索(ケーブル)線(2.13km)を開業しました。鋼索線は、現在に至るまでケーブルとしては日本最長であり、当時「東洋一のケーブル」と言われました。愛宕駅の2階に開設した「愛宕食堂」は、京都市内、比叡山、比良山などを一望できる眺望を売りにしていました。
当初の計画では、開業時に電車を新製する予定だったようですが、実際には新京阪鉄道(後の京阪新京阪線、現・阪急京都線)の昇圧に伴い不要になったP−1型5両(3、5〜8号、定員74名)を借り受けて使用していました。この車両は新京阪鉄道の前身である北大阪電気鉄道が大正10(1921)年4月1日に十三−豊津間を開業したときに製造した車両でした。その後、昭和10(1935)年10月18日付で京阪電気鉄道から正式に購入し愛宕山鉄道1型となりました。電力確保についても、当初は自前で変電所を建設する予定でしたが、自前の変電所は建設できずに親会社の京都電灯から電力の供給を受けていました。 また、鋼索線はスイスのギーセライベルン製(定員84名)2両を開業時に新製し、使用していました。
開業時の運賃は平坦線・嵐山−清滝間15銭、鋼索線・50銭(往復1円)でした。所要時間は各11分、運転間隔は平坦線・10〜20分、鋼索線・15〜20分、嵐山駅は始発6時・最終24時、清滝川駅は始発7時・最終21時でしたが、千日詣りの時は終夜運転を行っていました。
鋼索線の開業に合わせ、テニスコート、ローラースケート場を併設し、サル山が人気だった清滝遊園地、愛宕駅前に愛宕遊園を開設しました。愛宕遊園の南側では山荘の分譲も行っていました。 夏場は愛宕山で山上テント村を営業し、涼を求める人々で賑わいました。
また、昭和4(1929)年12月には、当時の京都府立京都第二中等学校(現・京都府立鳥羽高等学校)校長で、スキーの普及に尽力された中山再次郎氏の指導のもと昭和3(1928)年より愛宕神社の奥に建設が進められていた愛宕スキー場が完成しました。 このスキー場は、食堂や休憩小屋も整備されるなど当時関西では最大規模を誇り、スロープ、雪量もよかったことから京阪神から日帰りで気軽に来ることができるスキー場として1シーズンで数万人ものスキーヤーが訪れたということです。 なお、昭和14(1939)年1月に、愛宕山鉄道と美津濃(現・ミズノ)が共同で愛宕スキー場内に中山再次郎先生の胸像を建立しています。
さらに、昭和5(1930)年7月20日には愛宕遊園内に愛宕山ホテルを開設しました。二階建てで洋室15室、和室1室のこじんまりしたホテルでしたが、娯楽場、浴場も備え、愛宕詣りの参拝客やスキーヤーで大いに賑わったということです。また、同時に愛宕遊園内に飛行塔を設置しました。愛宕遊園の飛行塔からは、京都市内、比叡山、比良山、丹波などが一望できて評判だったそうです。
このような状況を当時の京都日日新聞は「愛宕山もケーブルにより、地上の楽園になった」と報道しました。
昭和4(1929)年度の乗客数は平坦線・53万人、鋼索線・18万人で、営業収支は黒字だったので5%配当を実施しましたが、工事費が平坦線で131万2185円、鋼索線で113万8662円と巨額の投資を行ったため、経営状況は急速に悪化しました。そのため、昭和5(1930)年12月から従業員削減などのリストラが決行され、労働争議も発生したということです。また、愛宕神社の参拝客や愛宕スキー場のスキーヤーの利便性向上のために建設が予定されていた愛宕駅−愛宕神社黒門前間の架空鉄道(ロープウェイ)の計画も頓挫してしまいました。
このような状況の中、愛宕山鉄道は積極的に旅客誘致策を実施しました。京阪電気鉄道、京都電灯、省線との連絡切符の発売、嵐山遊船や清滝の料理屋・旅館との連携、愛宕スキー場利用者への割引切符の発売などです。親会社の京阪電気鉄道は愛宕山鉄道を重視していました。当時、京阪嵐山線(現・阪急嵐山線)では嵐山駅到着前に「嵐山、愛宕方面行き乗り換え」と車内放送していたということです。また、天神橋(現・天神橋筋六丁目)や十三から嵐山経由で愛宕への連絡切符、回遊切符などを発売していました。当時、天神橋−愛宕間は片道1円41銭、往復2円でした。片道運賃と比べて往復運賃を極端に安く設定することで、大阪(天神橋)や神戸(十三で阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)、天神橋で阪神電気鉄道に連絡)からの旅客誘致を図りました。回遊切符には愛宕嵐峡下りコースや愛宕清滝京都回遊コースなどがあり、好評を博しました(回遊切符は京都電灯や嵐山遊船でも発売していました)。さらに、スキーシーズンの日曜・祝日の早朝には、天神橋から嵐山まで直通するスキー列車(所要時分:47分、停車駅:淡路、高槻町(現・高槻市)、桂)を運行し、大阪方面から愛宕スキー場への利便性の向上を図りました。
また、昭和16(1941)年4月11日には省線からの乗客誘致のため、省線山陰線(現・JR嵯峨野線)との交差部分に嵯峨西駅が設けられました。
昭和10(1935)年に親会社の京阪電気鉄道と京都電灯から計150万円の債務保証を受けて経営がようやく軌道に乗った愛宕山鉄道でしたが、昭和18(1943)年12月3日に大東亜戦争激化のため、不要不急の路線として当局より廃止命令が下り、昭和19(1944)年1月11日資材供出のため平坦線が単線化され、2月11日に鋼索線が廃止に追い込まれ、清滝遊園地、愛宕遊園、愛宕山ホテル、愛宕スキー場も同時に廃止されました。
さらに同年12月11日に平坦線も廃止され、使われなくなった車両は親会社の京阪神急行電鉄(現・京阪電気鉄道、阪急電鉄)や京福電気鉄道に引き取られました。これらは、戦後も京阪石山坂本線1型(昭和34(1959)年12月18日廃車)や京福永平寺線ホサハ51型(昭和40(1965)年12月19日廃車)として活躍しました。
平坦線の線路などは京都市電梅津線(昭和20(1945)年3月開業、昭和33(1958)年12月廃止)へ、鋼索線の資材は丹後海陸交通 天橋立鋼索鉄道(傘松ケーブル)(昭和26(1951)年8月12日運行再開)、東京都の御岳登山鉄道と香川県の屋島登山鉄道へ転用されました。傘松ケーブルでは、運行再開当初は愛宕山鉄道の車両の下回り品を流用した車両を使用し、現在でも愛宕山鉄道から引き継いだレールを使用しているということです。
清滝トンネルは三菱重工業 航空機機体工場 第14工場へ転用されて、昭和20(1945)年5月から終戦までの間、航空機の排気弁を製造していたということです。そして、戦後はさらに道路に転用され、現在の形になりました。
愛宕山鉄道は、京阪神急行電鉄や京福電気鉄道との合併を画策しましたが不調に終わりました。その後もしばらく会社は存続していましたが、昭和34(1959)年10月31日についに解散し、愛宕山鉄道は完全にその幕を閉じました。その後昭和42(1967)年にはケーブルカー復活の計画が発表されましたが結局実現せず、現在に至っています。
廃止の翌日から、代替として嵐山バス(現・京都バス)が鳥居本まで愛宕参道経由で走り始めました。京都バスは昭和24(1949)年10月に京阪神急行電鉄・京福電気鉄道・嵐山通船との連帯運輸により清滝まで臨時延長運転を実施し、昭和25(1950)年4月に正式に路線延長が認可されました。昭和35(1960)年5月に釈迦堂から清滝までの廃線跡を清滝道として整備し、京都バスも清滝道を経由するようになりました。さらに昭和45(1970)年4月18日には嵐山から釈迦堂までの廃線跡を活用する形で嵐山高架道路(市道宇多野嵐山樫原線)が建設され、現在の姿になりました。
年月日 | |
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大正15年 6月18日 | 愛宕登山電気鉄道敷設願書提出 |
大正15年11月15日 | 愛宕登山電気鉄道敷設認可 |
昭和 2年 8月 1日 | 愛宕山鉄道株式会社設立 |
昭和 3年 6月 | 平坦線・鋼索線起工 |
昭和 4年 1月 | 鋼索線建設資材運搬用の貨物用架空索道開業 |
昭和 4年 4月12日 | 平坦線・嵐山−清滝間(3.4km)開業 |
昭和 4年 7月25日 | 鋼索線・清滝川−愛宕間(2.1km)開業 |
昭和 4年 8月 2日 | 愛宕山に山上テント村開業 |
昭和 4年12月 | 愛宕スキー場完成 |
昭和 5年 7月20日 | 愛宕山ホテル、飛行塔開業 |
昭和10年10月18日 | 京阪電気鉄道より正式に車両を購入 |
昭和14年 1月 | 愛宕スキー場に中山再次郎先生の胸像を建立 |
昭和16年 4月11日 | 嵯峨西駅開設 |
昭和18年12月 3日 | 大東亜戦争激化により廃止命令下る |
昭和19年 1月11日 | 平坦線、鉄材供出のため単線化 |
昭和19年 2月11日 | 鋼索線・愛宕スキー場・愛宕山ホテル・清滝遊園地・愛宕遊園廃止 |
昭和19年12月11日 | 平坦線廃止
嵐山バス、鳥居本まで代替バス運行開始 |
昭和20年 5月 | 三菱重工業、清滝トンネル跡を航空機機体工場 第14工場へ転用 |
昭和24年10月 | 京都バス、清滝までバスを臨時延長運転 |
昭和25年 4月 | 京都バス、清滝までの路線延長認可 |
昭和34年10月31日 | 愛宕山鉄道株式会社解散 |
昭和35年 5月 | 釈迦堂−清滝間の廃線跡を利用した清滝道完成 |
昭和45年 4月18日 | 嵐山−釈迦堂間の廃線跡を利用した嵐山高架道路(市道宇多野嵐山樫原線)完成 |
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